「今更聞けない百合ヒストリー~独断と偏見による百合概論と歴史について、GWなので本気出して考えてみた~」の中の新井素子プロフィールに違和感を覚えたのでどの辺りが違うのか考えてみた。






話の続きです。
「今更聞けない百合ヒストリー~独断と偏見による百合概論と歴史について、GWなので本気出して考えてみた~大正・昭和編」という記事の「集英社コバルト文庫の創刊とライトノベルの始祖・新井素子」の項に書いてある新井素子さんのプロフィールは、納得しかねるものでありました。まとめるとこんな感じです。
「天才少女・新井素子の書く小説は純文学でもなくSFとも言い切れず私小説でもないため当時の文壇には居場所がなかった。しかし少女小説誌『小説ジュニア』(後の『Cobalt』)という場を得たことで水を得た魚のように意欲作を多く発表した。そこで経験を積みその世界に触れたことが彼女の百合才能を開花させる一因となった。大学に進学してからは、本格SFを多数執筆し多くの作品で「女性同士の共依存的友情」を描いた。」

居場所。
新井素子さんは高校生の時に、SF雑誌『奇想天外』が主催した「第1回奇想天外SF新人賞」で佳作を受賞し、SF作家としてデビューしました。筆者の方は「SFとも言い切れず」と仰っていますからSFとは思えないのかも知れませんが、世に出るきっかけはSFとして認められたことでした。元々ご本人も星新一の作品を読んだことがきっかけで中学生の頃からSF作家を志望しておられまして、SF雑誌では久々に開催された新人賞ということもあり、選考委員も高名なSF作家である星新一小松左京筒井康隆の三氏が務めるという豪華さと、この期を逃すと次にいつ募集があるか判らないという切迫感から応募されたようです。
デビュー後は大学受験のための休筆期間とその影響によるスランプ(1978-1979年)を挟んで、『奇想天外』、『高一コース』、『小説ジュニア』などの雑誌にSF小説を発表していきます。『奇想天外』でデビューしたことからSFファンの認知度は高く、日本SF大会に参加したファンが選ぶ「星雲賞」日本短編部門を、1981年に「グリーン・レクイエム」で、1982年に「ネプチューン」で、2年連続で受賞するなど高い支持を受けてもいたのです。少なくともSF界隈には「居場所がない」なんてことはありませんでした。
新井素子さんのコバルト文庫集英社文庫コバルトシリーズ)初登場は、1980年の『いつか猫になる日まで』でした。これは書き下ろしで刊行され、背表紙のタイトル脇には「SFコメディ」とキャプションが付いていました。『小説ジュニア』に小説が掲載されるのは、その後になります。昔は短編小説を書くのは苦手だとよく書いておられましたが、その頃に『小説ジュニア』『Cobalt』に掲載された小説も実はそんなに多くはありません。また、当時は他社からも並行して長編小説を刊行しており、厳密に言えば『Cobalt』だけが執筆の拠り処という訳ではありませんでした。

コバルト文庫との仕事のきっかけについては単行本版『チグリスとユーフラテス』(集英社)の「あとがき」に記述があります。P.492より。

直接お仕事をしたことこそあまりないんですが、山田さんって、わたしが非常にお世話になった方なんです。最初の本*1を出してすぐ連絡をくれた編集の方で、私のお話をかってくれ――とはいえ、当時の私はまだ高校生、さすがに集英社文芸編集部で本は出せないからって、コバルト文庫の編集長を紹介して下さったのが山田さん。でもって、処女作を出した出版社がつぶれて、原稿料も印税も踏み倒された私が、なんとか喰っていけたのは、偏にコバルト文庫でのお仕事があったからなんです。その上、コバルト文庫のおかげで、SFファン以外の読者を獲得することもできたし。

仕事をし出した経緯が、記事で筆者の方が書いたプロフィールとは異なっているのが判ります。

「百合」。
新井素子作品の「百合」要素というのは面白い視点だと思います。よくよく考えてみると1977年のデビュー作「あたしの中の……」にも既にしてエクーディとルナによる「百合」のような関係が見られます。コバルト文庫初登場作である『いつか猫になる日まで』のもくずとあさみの関係を「百合」と見做す向きもあったりします。

故に、その辺りは『Cobalt』での経験の反映というよりも、新井素子作品が元々内包している性質なのではないか、というのが個人的な印象です。そう言えば、映画『グリーン・レクイエム』のパンフレット掲載の今関あきよし監督との対談で、新井素子さんはこんなことを仰っていました。

新井 ようするに、私たち2人とも、女の子が可愛ければどうでもいいっていうポリシーで仕事してるんですよね。
今関 基本的にそうですね。
新井 私も小説書いてて、本当にラブ・シーンの少ない作家だってしょっちゅう思うくらいだし、私も主人公の女の子気に入ってるから、あんまり男の子とベタベタさせたくないというか。だいたい私の小説の女の子って、なんかあっても、みんな男の子を脇で見てるだけですよ。でも、私、ヒロインの相手役の男の子に嫉妬したことはないぞ(笑)。

話を元に戻すと、記事中で紹介されている『扉を開けて』の初出も『Cobalt』ではなく、『奇想天外』の1981年6月号でして、単行本は1982年にCBSソニー出版から一般文芸書として刊行、1985年にコバルト文庫から再刊行されました。そもそも作品の成立過程に『Cobalt』は関わっていません。筆者の方はこのような経緯を知らずに、コバルト文庫のために書かれた作品だと誤解していたのかも知れません。

www.inside-games.jp

↑こちらの記事では、初出に関する訂正が追記されましたが。

※1:5月8日追記 「扉を開けて」の初出はコバルト文庫ではなくCBSソニー文庫であり、コバルトへの移籍出版は1983年でしたので、時系列に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

ご覧のようにその訂正文にも誤りがあります。
ともあれ、作中の「百合」要素を『Cobalt』に結びつけて語るのは、安易な図式化なのではないかと思いました。

新井素子作品に描かれた印象的な女性同士の繋がりと言えば、『通りすがりのレイディ』のあゆみちゃんとレイディ、『カレンダー・ガール』のあゆみちゃんとまりかちゃん、『逆恨みのネメシス』のあゆみちゃんと信乃さん、『ラビリンス――迷宮――』のサーラとトゥード、『・・・・・絶句』のもとちゃんと拓ちゃん(!)、「ブラック・キャット」のキャットと千秋、等々「今更聞けない百合ヒストリー~独断と偏見による百合概論と歴史について、GWなので本気出して考えてみた~大正・昭和編」で紹介された作品の他にもまだまだありますので(「共依存」はそんなに多くはないとは思いますが)、その辺りはもっと語ってみてもいいのではないでしょうか。

余談

その後10年以上にわたり文壇で「あれは文学ではない」「いや新しい文学の始まりだ」と論じられるほどでした。

この文章のソースを知りたいのですが、どなたかご存知ではありませんか。デビュー後に作品について賛否両論があったという噂は聴くのですが、誰がどこで言っていたかというのを具体的に知らないのです。

*1:引用者注:『あたしの中の……』(奇想天外社/1978年)のこと。